2013年10月25日金曜日

2013年 8月8日~10日 仙台・石巻・松島

8月8日

栃木県宇都宮市 東北自動車道上河内SAで宇都宮餃子を食べる。





まだ,こんな所がある。






仙台七夕まつり






松島が見渡せるホテル「大観荘」






8月9日


石巻市

石ノ森萬画館







やばせたかし の 手形
藤岡弘 の 手形





石巻市立大川小学校









クリネックススタジアム宮城












8月10日

松島

遊覧船からかっぱえびせんを投げると,カモメが器用にキャッチする。




2013年10月24日木曜日

2013年 8月8日~10日 仙台・石巻




8月8日,今年も東北旅行に出発!




東北道 上河内SA で朝食。もちろん宇都宮餃子。美味し(^^)





福島県 安達太良SA。

一昨年,ここは応援に向かう自衛隊員で埋め尽くされていた。


今はのどかな所。






仙台七夕まつりの混雑を避けるために,まつりが終わった後に日程を組んだつもりが,1日カブってました笑。

で,せっかくなのでまつり見物。何やってんだ?σ(^_^;)





8月9日 石巻市


「石ノ森章太郎 漫画館」

周囲は,津波にさらわれて,まだ何もない所でした。

ロボコンの笑顔がちょっと痛々しかったな・・・








石巻市立大川小学校を見ました。

震災の日,子供達を連れた教師が,校舎に隣接する山に登らず,あろうことか橋に避難して数十人が津波に呑まれた事故です。
この行動は日本中から非難されました。

私も,何をやってるんだと思ったものです。

行ってみてわかりました。

橋以外に逃げる場所がないのです。

ニュースでは,大川小学校は,川と山にはさまれた立地と説明されていましたが,実際にはそうではありませんでした。

「川と崖の隙間に校舎が建っている」 のです。

いちばん高いところはもちろん崖です。

幼い小学生が数十人も登り切れるとは思えません。

大地震の直後なら,どんな大人でも崖は避けるはずです。

そうすると,後は橋しかないのです。
橋は「水の上」にあり,堤防につながっています。

結果的に,教師の判断は間違っていました。
私も教師が正しかったなどと言うつもりはありません。

誰かの判断が悪かったという話ではありません。

大地震がきた時点で,もう逃げ場はなかったのです。

迫り来る津波を見て,教師と子供達はどんな思いだったか。
想像するととても辛い。


こういうことは,現場を見ないとわかりません。










津波の爪あとを見て悲しい気持ちになるだけでは何なので,楽天イーグルスの試合を見に行ったら・・・

なんとマー君が16連勝の新記録。

マー君の手にタッチできて喜ぶ妻でした。








2013年10月22日火曜日

2011年5月4日 塩釜

募金がわりの観光をするつもりで来たのに,私たちには何もできることがありません。

お土産屋さんでもあれば,買って帰るんだけどな。

当然,そんな雰囲気はまったくありません。

とりあえず,仙台若林区を出て,地震と津波に破壊された港を右手に見ながら,北上してみました。

海なし県で育った私は,港と聞くだけで憧れてしまうのですが,



どこまで行ってもこんな景色しかなく,悲しい気持ちになるばかりでした。

そこに,「観光桟橋」の表示が。


行ってみよう!


うわー,観光は無理かな?

この辺りは,若林区以上に悪臭がひどかった。

でも・・・

あった!


マリンゲート塩釜!


こういうのを見ると,ほっとする。

でも・・・


芳美の右手側に地割れ。左手側が港。
地割れを境に,駐車場が海に向かって落ち込んでいるため,
駐車場がすべり台のように傾いている。
こんな駐車場を見ると,泣き顔になってしまいます。



気を取り直して中に入ると,お客は少ないものの,お土産がたくさん並んでいました。

私「三陸わかめ,安いね。これ買おうかな」
店のおじさん「あー,それね,津波で生き残ったの。安くするよ」
私「・・・」
お土産にまでストーリーがあるのか・・・

お菓子を売っているコーナーで,お店のおばさんに声を掛けられました。

群馬からお土産を買いに来たと言うと,小さなアルバムを取り出して,私たちに3月11日のことを話し始めました。

アルバムの中は,津波の写真でいっぱいです。

おばさん(名前を聞きませんでした)は,「マリンゲート」で被災したのですが,港の遊覧船が「浮桟橋」につながれていて津波に流されなかったおかげで助かったそうです。

大きな遊覧船にはトイレや,携帯コンロもあったので,そこが臨時の避難所になり,3日間過ごしたそうです。

3日たって「マリンゲート」を出てからの話がすごかった。

おばさんの家は仙台市内にある(地図で見たら,20km近く離れている)けれど,車は流されてしまったし,道路もなくなってしまった。

そこで,5時間かけて,歩いて帰ったそうです。

そして翌日,「マリンゲート」を復活させるために,
また歩いて「出勤」し,
「スコップで」
港を埋め尽くした泥をすくい取ったというのです。

2か月がんばって,ついに「復興市」にこぎつけた,という話でした。

話を聞いている妻の目はキラキラ輝いて,もう,このおばさんのファンになっていました。

「今日は時間がないけど,近いうちに必ず遊覧船に乗りに来ます」

こう約束して,その日はお別れしました。



そして,約束通り,7月にもう一度お邪魔して,おばさんと記念写真を撮らせてもらいました。


写真を公開する許可をとっていないので,
モザイクかけます。
おばさん,ごめんなさい。

おばさん,力強い話を聞かせてくれて,ありがとう!






2013年10月21日月曜日

2011年5月4日 仙台若林区

喜多方を離れた私たちは,東北道を北上して仙台市に入りました。

長い道のりだったので,もう夜の7時です。

仙台駅は立派な駅ビルでしたが,節電のためか,中は薄暗くなっていました。

「東北楽天ゴールデンイーグルス」
のポスターだけが,明るい光を放っていました。


明日,明るくなってから被災地へ行ってみよう。

とは言うものの,思いつきで出発してしまった旅なので,宿の予約もしていません。

仙台駅周辺の大きなホテルは,どこも入れませんでした。

寝られればいいんだからとファッションホテルを探し,名取市でやっと見つけて泊まりました。

駐車場に,大きな地割れがありました。

頻繁に余震がありました。震度4の揺れもあって,とても落ち着いていられません。

地元の人は,毎日こんな中で暮らしてるんだ。もう2か月も。

テレビをつけても,震災の情報ばかりです。どんどん気持ちが暗くなっていきました。


翌朝。

余震でグラグラ揺れるファッションホテルを早々に抜け出して,再び仙台市内に入りました。

テレビで大変な被害があったとリポートしていた,若林区に行ってみました。

新しい家が多く,きれいな住宅地です。どの家も造りがしっかりしているらしく,福島よりも被害は少なく見えました。



突然,家並みが消えて,茶色の荒野が広がりました。

芳美も私も,同時に「あっ」と言いました。


何でもあるけれど,何もない世界。
帰るところを失った海の水。
海はどこにも見えない。


写真の左側が,防潮堤でもある高速道路。
高速の向こう側のはるかかなたに海がある。

一般道から高速道路を見上げる機会があったら,想像してみてください。

たくさんの車をのせた水の壁が,高速道路を乗り越えて迫ってくる様子を。

現地では容易に想像ができました。怖くて足が震えてしまいました。

車,大木,浴槽に冷蔵庫・・・そこには何でもありました。

しかし,どれもみんな茶色くなって死んでいました。

大きな爆弾を落として爆破した後に,重機で念入りにつぶしたような,人間ならばこんなことはしないだろうと思う景色が広がっていました。

そして,悪臭。
磯の香りと,古い油と,汚物を混ぜたようなにおい。

そして気づきました。私たちは昨日から一度も海を見ていません。

海ははるかかなた・・・こんなところまで海水が来るとは,地元の人も想像していなかったそうです。


言葉もなく,しばらく走っていると,荒野の中に人の気配が。
遠くにビニールハウスが見える。
かろうじて残った家や畑で,人が動いているのが見えました。
この絶望的な荒野の中で生活している人たちでした。

おじいさんは畑に肥料をまき,買い物袋をさげたおばあさんが歩いています。

地震で波打った道路を,部活動の子たちがランニングしています。

土台だけが残った家の庭をほうきで掃き清めている人。

驚きました。

私は30分ほどいるだけで頭が変になりそうなこの世界の中で,普段の生活をしている人がいるなんて。

テレビでは,肉親を失って泣き崩れる人や,避難所でうつむく人ばかりを見てきていました。被災地の人は,みんなかわいそうなんだと思っていました。

それは,失礼な考えだと気づかされました。

みんな,自分の力で生きようとしている。

海水につかった畑で作物を育てようとしている。

家が流されても,庭をきれいにしようとしている。

涙が出てきました。

もっと,被災地の人たちを知りたいと思いました。

「なんか,この人たちと一緒に何かしなきゃいけないような気がしてきた」
「あたしもそう思った・・・」


生きようとしている人を見ると,放っておけない気持ちになる・・・それは,人間の本能のようなものなのかもしれません。

でも,何をすればいいのかは,わかりませんでした。


2011年5月3日

東日本大震災から2か月。

妻(芳美と言います)と私は,ボランティアで貢献できないかわりに,東北でお金を使ってこよう,と軽い気持ちで東北自動車道に入りました。

群馬県を出て宇都宮を通り,福島県に入ると,被災地の雰囲気を感じるようになってきました。

沿道の家々の屋根に,青いビニールシートがかかっています。群馬県にもそういう家はありましたが,その数がどんどん増えていきます。

ラジオ放送が,頻繁に放射線量のリポートをしています。郡山市の値が高いようです。

自衛隊の車両が増えてきました。トイレ休憩でパーキングに寄ると,自衛隊員と全国から集まってきた警察官で埋め尽くされていました。


福島観光なら喜多方ラーメンだろうということで,郡山から内陸方面にハンドルを切ります。

東北は広い。

喜多方では,地震や原発事故などなかったかのように穏やかです。

有名なラーメン屋さんは長蛇の列。



ラーメンにありつくまでに2時間もかかりました。

放射線を気にしていたら,こんなに並んではいられないね。

さて,東北道に戻る前に,もう少し喜多方を見ていこう。

ちょうど,しだれ桜が見ごろだと聞いたので,行ってみました。芳美はしだれ桜が大好きです。


満開です。



芳美はにこにこ。

夢のようなところでした。

東北はきれいなところだね,住んでみたいなあ。

翌日見るものなど,想像もできませんでした。



2013年10月17日木曜日

あの日 あの時

私の妻は脳に障害があるため,自分の体調を自分で正しく把握することができません。
「ちょっと痛い」とだけ言っていたのが,命を懸けた手術に発展してしまったこともあります。
そこで,私は妻の体調が少しでもおかしいと感じたら,ためらわず病院に連れていくことにしています。


2011年1月のある日

妻の生理が安定しないので,産婦人科の病院に連れていきました。
よくある生理不順だと思ったのですが,大丈夫という言葉をお医者さんから聞きたかったのです。
大きな病院なので人も多く,検査の結果を聞くまでに長く待ちました。

「出血は少ないようですが,生理がないわけではないし,大丈夫ですよ」
いかにも大したことはないという感じで,お医者さんはてきぱきと話を進めました。
「ああ,それから,念のために子宮頸がんの検査もしましたが,これも大丈夫・・・ではないですね」
私は息をのみました。
「子宮頸がんがありますね・・・まだ初期のはずですが,どの程度進行しているのか,もう一度検査をさせてください」

再検査を受け,検査結果を聞く日を予約してから,私たちは車に乗りました。

車のエンジンをかけ,走り出そうとしましたが,私は泣くのを我慢できませんでした。

俺は嫁の命を守るためにずっと頑張ってきたぞ!
まだ頑張りが足りないのか?!

「まだ初期だって言ってたじゃない。きっと大丈夫だよ」
がんを患った本人の方が落ち着いて自分の運命を受け入れていました。

励ますべき相手に,逆に励まされてしまいました。

次の週,検査の結果を聞きました。
「初期の子宮頸がんです。ごく簡単な手術で取れます。ただし,がんを発生させたウィルスは,薬では死滅しない種類のものでした。必ず再発するので,将来も検査は欠かせません。でも,子宮頸がんは進行に長い時間がかかるので,定期的に検査をしていれば,心配することはありませんよ」
丁寧な説明の後,妻が低酸素脳症の治療を受けた総合病院に紹介状が書かれ,そこで2カ月後に手術を受けることになりました。



2011年3月11日

妻の手術は午前10時から。私たちは指定された通り9時に病院で受け付けをし,妻はそのまま処置室へ通されました。
普通の診察と同じ流れで,本当に簡単な手術なんだなと納得できました。
10時半には無事に終わったと告げられ,出血が落ち着いたら家に帰ってもいいですよと言われました。

12時,妻が「おなかがすいた」と言うので,帰宅することにしました。
次の検査の予約をして,コンビニでパンを買い,家に帰りました。

軽い昼食をとり,こたつに入って一休みしました。
私は,緊張がほぐれたためか,いつの間にか眠っていました。

「地震?」
妻の声で目が覚めました。
アパートの天井から下がった電灯がゆっくり,小さく揺れています。

いつまでたっても収まりません。それどころか,揺れは大きくなる一方です。
電灯が,天井にぶつかりそうな勢いで揺れています。

こたつに入った妻の真横ではテレビがグラグラと揺れています。

体が不自由なためにすぐには立てない妻を抱きかかえて,隣の部屋へ連れていきました。ここなら,倒れてくるものはありません。

倒れるものはありませんでしたが,アパートが倒れそうな勢いになりました。

私たちは2階建てアパートの1階に住んでいました。防犯のために,ベランダからは出入りできないようになっています。外に出られるのは,玄関だけです。
私は,玄関とは反対の,奥の部屋に妻を連れていってしまいました。揺れがさらに大きくなり,人を抱えて歩くことは難しくなりました。

このアパートが崩れたら・・・どうする?

今考えると間抜けな対応でした。思い出すだけで恥ずかしくなります。

私は,妻に布団をかぶせて,その上に自分が覆いかぶさったのでした。

日ごろの防災意識が低いと,こんなことになります。本当にアパートが倒壊していたら,私たちは二人ともこの世にはいなかったのではないかと思います。


大きな揺れが収まったので,すぐにテレビをつけました。
東京湾で,石油タンクが燃えている速報が。
「大変だ,関東大震災だ」
画面に見入っていると,恐ろしい余震が始まりました。

今度は外に出よう。

まだ寒い3月,妻を車に乗せて,倒れてくるものがないところを求めて走り出しました。

車のラジオをつけて,地震の情報を聞きます。

ところが,カーナビというのは高性能というかおせっかいというか,災害に合わせて,強制的にテレビニュースに切り替えてしまうのです。

そこで目に入ったのが,仙台で津波が車を流している生中継でした。

「なんだこれ?」

近くの駐車場に車を止めて見ていました。
生中継ですから,今では放送できないような場面まで見ました。
それからずっとニュースにくぎ付けになってわかったことは,容赦ない自然災害では,弱い人から死んでいくということでした。

妻は出血が止まらなくなり,4日間入院しました。



2011年5月3日

「おまえの体じゃあボランティアはできないから,かわりに東北でお金をつかってこよう」
と,妻を車に乗せて東北に向かいました。

東北道を北上し,喜多方でラーメンを食べてから仙台へ。

仙台の若林区に行ってみました。

畑に,電車が斜めに刺さっていました。

そこにあるはずのないものが,あちこちに転がっていました。

私たちは息をのみました。言葉が出てきません。

テレビや新聞ではわからない,想像を超えた大惨事が目の前にありました。


でも,もっと驚いたのは,そこで生活する人々の姿です。

電車が突き刺さった畑で,おじいさんが肥料をまいていました。

部活動の女の子たちが,ランニングをしていました。

みんな,ちゃんと生活をしていました。

考えてみれば当たり前なのですが,私はこんな人々の姿を想像していませんでした。
被災地の人たちは,弱々しく,泣きながら暮らしているようなイメージをもっていたのです。

でも,そんなことはなかった。
人間て強い。ここの人たちはみんな英雄だ。

勝手な想像をしていた自分が恥ずかしくなり,被災地で生きる人々の雄々しさに涙が出ました。

テレビや新聞だけでわかったような気分になっちゃダメなんだ。
そう思って,他の地域も見ることにしました。

そして,強い人たちにたくさん会えて,感激しました。



妻のガンを知った時には落ち込みましたが,いつまでも泣いていられないねと,妻と話しました。



あの日から,夏の旅行では,東北に行くことにしています。
少しでも,被災地で暮らす立派な人たちに貢献しようと思っています。


時には他の地方にも行きたいですけどね(^^)



終わり

2013年10月14日月曜日

小さな幸せ

妻が障害を負ったのは10年ほど前です。
最初は,死ぬか植物状態だと医者に言われましたが,そこから奇跡的に回復しました。

病院を出て普通の生活が始まっても,まだ一人で着替えもできませんでした。
私が仕事に出ている間は,一人で家に閉じこもるしかありません。

そこで,休日になると妻を外に連れ出して,散歩させました。
でも,生活がガラッと変わったので,お金がありません。
そんな中でも,少しでも楽しい気分にしてやるために,私がおにぎりを作ってやったりしました。
男が慣れない手で握ったので,カチカチで不味かったのですが,世話をしてもらえる喜びと,外の空気を満喫する楽しさで,妻は大喜びしてくれました。
そして,お金に余裕がある時に,おにぎりのかわりに「たこ顔」のたこ焼きとお好み焼きで贅沢しました。美味しかった。

今,割と豊かな生活ができていますが,夏が終わると,外で「たこ顔」するのはやめられません。

お金が無い時の方が,楽しみを見つけるのが上手になるようです。

2013年10月14日のできごと

私の妻は,事故で「高次脳機能障害」を負いました。
脳細胞がたくさん死んでしまったので,記憶力が弱く,昨日のことも忘れます。
手が勝手に動くので,危なくて包丁を持てません。
歩くとよろけるので,杖を持っています。
舌がもつれるので,上手にしゃべれません。

何もできないのではさびしいので,施設で毎日訓練を受けています。

7月のある日,彼女は心臓移植手術が必要な小学生の話を聞きました。
アメリカで手術を受けないと死んでしまうけれど,費用が1億7千万円もかかるので,家族と周囲の人々が募金を始めたそうです。1円でも足りなければ,手術を受けられないとのことでした。

彼女は,何とかしなければと思いました。見たこともない子ですが,病気のことを想像すると,どきどきしました。
自分のお小遣いを募金しましたが,まだまだ足りません。
そこで,募金のポスターを手に入れて,近所のお店に持っていきました。断られることもありましたが,たいてい快く貼ってくれました。

それでも,まだ足りない。

もう10月です。早くなんとかしたい。

そこで,女子大に行ってみようと思い立ちました。
2年ほど,大学内にある福祉作業所で,教室やトイレの清掃をしていたことがあったのです。
何かできるかもしれないと思ったので,訓練が休みの水曜日に出かけました。
家を出る時から,募金のチラシをゼッケンのように胸に貼り付けました。
バッグには,募金を入れるためのヨーグルトの空き瓶を入れました。

周囲の人にはどう見えていたでしょう?

でも,思いついたことしかできません。

チラシを胸に貼ったまま,バスを乗り継いで女子大へ。
顔見知りの守衛さんに事情を話しました。
守衛さんもその子のことは知っていて,事務室に連絡を入れてくれました。
事務室では,学内のボランティアサークルに連絡をしてくれると約束してくれました。

でも,まだ足りない。

事務室を出た彼女は,自分でももっと頑張りたくて,でも何をしたらいいのかわからないので,空き瓶を持って学内を歩いてみました。

学生さんたちが冷たいわけではありません。
小さなチラシを胸に貼っているだけでは,すれ違っても読めるわけがありません。
空き瓶も,ふたが閉まっていたそうです。
募金が集まったら,奇跡です。

帰りのバスが出るまで,4時間ほども歩き回ったそうです。

奇跡が起きました。

かつてお世話になっていた作業所の職員さんとすれ違い,その人が
「少なくてごめんね」
と言いながら200円を入れてくれたそうです。
涙が出るほどうれしく,200円が入った瓶を抱えて家に帰りました。

今日の話を妻から聞いた私は思わず,
「おまえ,すごいな」
と言いました。
「でも,見たこともない子のために,どうしてそんなに頑張ったんだ?」
「だって,お金が足りないとシュジュチュできないっていうから,アタチも何かしたかったから・・・」
「助けたかっただけか?」
「うん・・・」
その日の緊張が解けたのか,彼女はさめざめと泣きました。私も少し泣きました。

尊い200円です。私はこれを確実に,「救う会」に届けなければなりません。



妻の,馬鹿だけど純情な一日を,誰かに伝えたくてこんな長文を書きました。
もし,読んでくださった人がいらっしゃいましたら,本当にありがとうございます。

もし,募金に興味がありましたら,リンクも覗いてください。

http://www.save-shunshun.com/